巫氏春秋

アフロユーラシア史関係の雑記。 歴史と民族関係の書籍紹介。 井戸の中のカエル(巫俊の前世)の陳腐な日常の大冒険の言行録を一挙公開♪ 巫俊の総裁する雑篇「巫氏春秋」を照覧あれ。

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

読書録

・『日本の時代史12』

戦国時代の地域国家を対象とする日本史の概説書です。
白い装丁が目印で日本史の概説書の最新シリーズ。
昨日は島津、大友、毛利のページを読みました。

・『鹿児島県都市地図』

どこに住んでいても手に入り、かつ市町村単位の広域なマップで薩摩国と大隈国の現在の姿を確認することができる。
地域史のイメージをつかむには欠かせない。

・『カンボジア史再考』

最新刊。
アンコール時代以降も衰えなかったカンボジア王朝の歴史を再考する。現地の写真や地図、年表が付属していて助かりました。
予算の関係かモノクロカラーであることが残念。
著者は日本の研究者でカンボジア語の文献を読む。

・『紫禁城の栄光』

講談社学術文庫の最新刊。
1968年の原本を文庫化したものですが、「明・清全史」という副題が付与されており、読んでいて最新の学説かと錯覚するくらいの先見性に内容は満ちている。
タイトルは「紫禁城の栄光」であるが、紫禁城の歴史を書いたものではないようです。

・『キャバクラ嬢が教えます エロかわ八方美人術』

最新刊。
むふふふふ、、、な内容と思いきや、歌舞伎町で生計を立てる女子の非常に冷徹な人間観察。
夜の世界で人生を挫折したようなどうしようもない客相手に立ち回れる経験があれば、昼の世界の対人関係は易しいという。
キャバクラに縁のないような人にお薦め。
『史記』で言えば、刺客列伝のようなものか。
刺客列伝に名を連ねるような国士であれば、ふつうの世の中で立ち回るのも容易という類。
スポンサーサイト

『三國志』以後の宮城谷昌光に五胡十六国か高句麗時代を。

期待したい。
短編小説にしても長編小説にしても、『三國志』以上に面白そうです。

宮城谷昌光が小説の題材を中国史に求めた元々のきっかけは、甲骨文字との出会いにありました。
新出の出土史料の甲骨文字には、従来の漢学の考え方を一新する魔力があります。

―知る喜びを知った―

と表現したら適切でしょうか。
宮城谷は中国文化ないしは東洋文化の深淵なところに、若くして触れてしまったのです。
その核心部分にとりつかれた宮城谷は今、漢字への熱心な探究心から転じて、中国史をその起源から解体して物語化しなおす作業に力を尽くしておられるようです。

かつての宮城谷は、せいぜい楚漢時代くらいまでを下限にして執筆する作家でした。
斉の桓公の宰相管仲をして、中国史上最高の宰相と褒め上げるくらいです。
しかし今執筆中の『三國志』にも、王佐の才を持った人間が相当数登場します。
宮城谷のこれまで培った感覚があれば、三国から以後の時代を題材にして、より多くの士大夫を見出して世に知らしめることも可能です。

『三國志』の執筆は宮城谷昌光のこれからの半生にとって、次のステップへ跳ぶ踏みしめられた基礎になるのではないでしょうか。

世間の人たちの関心を、広く三国以降の時代にまで喚起することができれば、晋書や魏書(北魏の正史)の全訳が出版されたり、五胡南北朝を題材としたマンガが生まれたりすることも、不可能ではないようです。

世の人の見る目の成熟次第で出版物が倍増ということも・・・(妄想はふくらむ)

http://mujin.parfait.ne.jp/mujins/sanguo/han.html#Sa-Ji1
(むじん書院『三国志人名事典 後漢書』左慈)

のちにある人が陽城山の頂で左慈に会ったというので、またも彼を追跡したが、(左慈は羊の姿に化けて)そのまま羊の群の中に紛れ込んだ。曹操は捕まえることができず、その羊の群に向かって「もう殺したりはしないよ。もともと君の術を試したかっただけなんだ」と言った。ふと、一頭の年老いた雄羊が前脚を曲げて二本足で立ち上がり、「どうして突然許す気になったのかね」と言った。(曹操の部下たちが)競うように飛びかかったが、群をなしていた数百頭の羊がみな雄羊に変わり、一斉に前脚を曲げて二本足で立ち上がり、「どうして突然許す気になったのかね」と言った。結局、どれを捕まえたらいいのか分からなかった。
―――
以上引用

「群をなしていた数百頭の羊がみな雄羊に変わり」という一節から、曹操の追いかけた羊の群れも大半は雌羊の群れだったことが分かる。

故宮所蔵 安武君の玉印

http://www.ha.xinhuanet.com/fuwu/kaogu/2006-04/05/content_6655689.htm

すげっー。
枕流亭さんの掲示板で秦の安武侯趙高の封地について話していましたが、
安武君という玉印が故宮に所蔵されているようです。
詳報がほしいですね。

玉印はふたつあり、それぞれ安武侯趙高のものと、安武侯劉邦のものではないかと考えられている様子。

かなり混乱してます。『呂氏春秋』から探る戦国衛の滅亡年次

衛という文字の旧字体「衞」は、『呂氏春秋』の全文検索では文字化けしてしまっている。そこで呂氏春秋のどこかに載っているという戦国衛の滅亡年次の異説を、新編漢文選の訳注『呂氏春秋』を一篇、一篇、注意しながらめくって探すことにした。

『呂氏春秋』は紀部、覧部、論部の三部から成り、三部合計すると二十六巻の百六十篇になる。
昨年読了した講談社現代文庫の『呂氏春秋』は紀部だけを全訳したもので、その中に戦国衛の滅亡に関係する内容は無い。
ということは目標は覧部か論部だ。
覧部はページ数が多く分厚いので、論部から攻める。
2時間くらいかけて論部に目を通した。
お目当てのものは無い。

次に覧部だ。すこし急いだから目を通した時間は1時間くらい。
見当たらなかった。

そのときたまたまパソコンの前にいたので、『呂氏春秋』をキーワード「魏」で全文検索してみた。
めぼしいものは無かったように見えたが、覧部の応言篇に「・」という欠字が見えた。
欠字は「衞」である可能性がある。訳注『呂氏春秋』を確認した。

「一方、この当時において、東西両周はまだ命脈を保っており、また魏は北宅を領有して、また陶を攻め衛の地を削り、六百里四方を領有していた」

灯台下暗し、実はこの応言篇は昨年度の卒論執筆の際に目を通しているものだったりする。
でも「削衛」とあるだけじゃ滅ぼしたという根拠としては弱いし、あれこれ考えてみると、「この当時」という年代も254年よりもっと以前のように思われる。

これじゃないのか!?やっぱりこれなのか!?どれなんだ~(×~×)
ついでに『戦国縦横家書』にも気になる記述が・・・
巫俊はもう混乱してます(T_T)

あと論部の士容篇に、伯陽の地の封君らしい唐尚という人が 「衛の君主が死んだら、私があなたの兄上を衛の君主にしてさしあげよう」と言っている一節を見つけたが、「あなた」も「あなたの兄上」も誰なのか分からない。
文脈からすると時代は魏の恵王の全盛期で、全盛の魏が小国の衛を併呑したとき誰を衛の封君にするか?という算段だと解釈すると、魏の衛国併呑の歴史の最初の過程を書いているようにも取れる。

戦国衛の滅亡年

『訳注戦国縦横家書』は藤田和久氏(講談社選書メチエ『項羽と劉邦の時代』2006などで知られる戦国時代の研究者)らが訳注を施して東方書店が出版しているものだが、

http://www.toho-shoten.co.jp/jbook/maoutai.html
↑『訳注戦国縦横家書』

その末尾に付属している年表には、
254年 魏が衛国を滅ぼす(呂氏春秋)
とある。

紀元前254年は吉本道雅氏の「戦国紀年略表」によると、
254年 衛の元君元年
とあり、
230年 衛の元君二十五年(元君二十五年死す『史記』衛康叔世家)
229年 衛の君角元年
209年 衛の君角二十一年亡ぶ
とある。
紀元前209年は二世皇帝の元年であって、
吉本道雅氏の「戦国紀年略表」は『史記』の衛康叔世家に準拠しているようである。

『史記』によると、衛の君主は元君の兄の嗣君の代に爵号を落として「侯」から「君」になっていて、
嗣君の子の懐君が魏に殺されて、懐君の叔父で嗣君の弟の元君が魏によって立てられたらしい。

『訳注戦国縦横家書』年表 254年 魏が衛国を滅ぼす(呂氏春秋)
は懐君を殺したことを言っているのだろうか。
『呂氏春秋』を全文検索してみたのだが、中央研究院のものは衛の字が文字化けして検索することができない...肝心なところでうまく行かないぜ(×_×)

ついでに吉本道雅氏の「戦国紀年略表」は、当該部分において踰年称元法を採用している。
平勢隆郎氏の説では衛の年次を立年称元法で計算し直して、紀元前221年(秦王政二十六年)の天下統一の年に衛も滅ぼされたとする。

(続く)

戦国燕という地域

最近、『戦国策』を読んでいる。
その中の「蘇秦将に従を為さんとして北のかた燕の文侯を説くの章」にちょっと興味を引く内容があったので書いてみる。

燕は、東に朝鮮・遼東が有り、
北に林胡・楼煩が有り、
西に雲中・九原が有り、
南に呼沱・易水が有る。
地は方二千余里、帯甲は数十万、車は七百乗、騎は六千疋、粟は十年を支え、
南に碣石と鴈門の饒わいが有って、北に棗や栗の利が有る。
民は田作に由らずと雖も、棗や栗の実は民を食うに足る。此れ天府なりと謂う所。

http://www.sinomaps.com/non-cgi/usr/39/39_118_12.jpg
地図(↑戦国燕)と見比べてみたりすると楽しい。
この地図じゃ高低差とかよく分からないので、
http://maps.google.co.jp/maps?hl=ja&q=%E7%A6%8F%E5%B2%A1&ie=UTF8&om=1&z=8&ll=40.023408,116.82312&spn=2.809902,5.971069&t=k
グーグルの航空写真(↑)でイメージをつかむ。
http://www.sinomaps.com/non-cgi/usr/39/39_120_3.jpg
地図(↑清直隷)と見比べてみるともっと楽しい。

衛星地図を見ていると、燕の辺境の市場だったらしい「碣石と鴈門の饒わい」が手にとるように分かる。
碣石山は山海関の内側で平地のなかにぽつんと孤立してる山のこと。
鴈門山は北京市街の北西のダム湖から西に行ったところにある山だ。

http://www.sinomaps.com/non-cgi/usr/39/39_118_10.jpg
鴈門山はこっちの地図(↑戦国趙・中山)に載っている。

衛星写真を見ればよく分かるが、二箇所とも鎌倉の切り通しを千倍にしたくらいのスケールの要害のなかにある。
燕の都の薊(今の北京市街)からまっすぐアクセスできる位置にあり、意外に近いように感じる。
燕の政権と山西省や遼寧省の異民族が攻防、あるいは交易するにはもっともな場所だと実感。

燕の辺境の要塞と思われる居庸の塞(ダム湖のすぐ東)や令疵の塞(碣石山の西北)も、北京周辺の平野部と異民族の割拠する外地を区別するものであると、本当に実感できた。
この勢いで五胡十六国の燕とかも見ていこうか♪

 | HOME | 

文字サイズの変更

プロフィール

巫俊(ふしゅん)

Author:巫俊(ふしゅん)
研究対象:中国史(夏殷時代の地域史)
テーマ:神の王権の民族抗争とその生態

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

ブログ内検索

RSSフィード

リンク

このブログをリンクに追加する

FC2Ad

Template by たけやん

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。