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巫氏春秋

アフロユーラシア史関係の雑記。 歴史と民族関係の書籍紹介。 井戸の中のカエル(巫俊の前世)の陳腐な日常の大冒険の言行録を一挙公開♪ 巫俊の総裁する雑篇「巫氏春秋」を照覧あれ。

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五胡十六国は中国の再興

晋代の歴史に関わる五胡十六国の史的考察と、谷川道雄氏の「隋唐帝国形成史論」について。

ゲルマン民族とヨーロッパの中世史は複雑な絆で結ばれている一方、
五胡と呼ばれた諸民族と中国の中世史は、結局のところ

呉・南唐・呉越→□(北宋)→南宋→□(元の江南)→明の南京京師体制→□(明清北京時代)→(太平天国)中華民国→□(現代)
(□は江南政権でない時期)

という風に、
東晋以来の南朝の「民族」というか「南人」の政権と「南の漢族」が、
中国の中心のひとつとして存続しているばかりか、時代が経過すればするほど求心力を増していったことから、
(経済力として、政治力として、現在は上海が国際機関も置かれる窓口になっている。)

まるでビザンツ帝国と中国の江南は対照的なんですよ。

東欧ブロックの地域王権に成り下がった形で歴史に書かれるビザンツ(しかも現トルコ)と、
ゲルマンに出自を持ち、ローマカトリックを守護する王権としてのフランク王国(現フランスとドイツ)の関係。

これは北周と陳の関係にそっくりだといえます。
ひとつ決定的に違う点は、北周→隋→唐は中国を統一したのに対し、
ヨーロッパは統一されることはなかったばかりか、ビザンツはイスラム教国のオスマン朝に攻略されてしまうということ。


つまりですね、ヨーロッパは分裂状態のままで、ゲルマン人は一貫して王権を維持しているのですよ。
イギリス・フランス・ドイツ、すべてゲルマンの末裔です。
ゲルマン(西)のヨーロッパが肥大化して、ビザンツ(東)はついに回復されることがなかったのです。

西欧中心のヨーロッパ史からビザンツが排除されたのに対し、
江南と不可分に結びついた中国史が、近世と近現代というステージで成立・定着したことから、
五胡こそ中国の起源であり真髄であるというような「北族の起源神話」はついに中国に定着しなかったと言えるのです。

なおヨーロッパにおける遼・金・元征服王朝の類型としては、マジャール・ブルガール・モンゴルがそれに相当し、
ジェシェン人の清朝の類型としては、ロシア帝国がそれに相当するでしょうか。
日本の類型としてはスペインか、ユーゴスラヴィア諸国か、どこに類例を求めるといいか判断しかねますが、
朝鮮やベトナム・チベットといったものも、類型が求められるでしょう。
こうした類型は「時代遅れのマルクス史観」の得意とするところでしたが、
五胡十六国が隋唐帝国形成の起源と位置づける谷川先生の論法は、
こうしてヨーロッパの歴史と比較してみて、

―ローマの再生に求心力を求めた中世以降のヨーロッパ―
―漢の再生に求心力を求めた中世以降の中国―

そこから統一と分裂の歴史を歩んだ過程がヨーロッパと中国ではっきり異なるということを図式化した上で、
谷川先生の隋唐帝国形成史を再検討する余地があると、踏んでおります。

個人的には、隋唐帝国の形成史に止まることなく、近世史に歩を進めて比較してこそ、混迷する近世史をときほぐし、
変転するヨーロッパの一千年史から、多いに受益するものがあると思っています。
私の知り合いのヨーロッパ史専攻のお人によりますと、ヨーロッパ史というものも、ここ数十年で大きく変貌を遂げており、
「なんとなくヨーロッパ史」なまま中国史ばかりやっておりますと、時代に置いていかれるのではないかと、これは巫俊の呟きですが。

そうやってみると、部族制などと今日はアフリカ史でも憚って使わないような言葉を使用している胡族研究に疑問も覚えたりするのです。
近年の五胡研究の論文で、五胡を「中国史上はじめて異民族が中国を征服した歴史」と書いていたのを見ましたときは、吹き出しそうになったのですが、
殷も周も異民族の中国(夏)を征服した歴史だとお考えにならないのでしょうか?
どうも中世史研究の内部だけで発想すると、そんな五胡から隋唐までで経過の切れてしまう歴史が叙述されるのだと思ってしまいます。
中世史に限定した歴史の叙述としては結構なんですけどね。

夏、殷、周は三代と呼ばれて、晋代から唐代にかけても中国の起源として尊重されましたが、
当の晋代から唐代にかけての士大夫たちは、夏、殷、周の三代が、広い意味での「北族」の牧畜民に由来する王権だと気付いてはいたのでしょうか?
現在のところ、夏は牧畜民の王権だとする根拠はありませんが、夏の禹が西夷の人だったことは、五胡の士人たちの知るところだったと思います。
西夏の国号の遠い由来で、陝北の夏州に統万城をつくったのは、匈奴の夏王朝です。
西方の砂漠に近い森林・草原地帯の王権に、夏の国号を選んだのはそのような理由からだと推測しています。

つまり、五胡(鮮卑ふくむ)の政権が江南を併呑せずに、北中国に割拠し続けて、何らかの変容を経験しながら、近現代を迎えた「架空の歴史」では、
おそらく五胡は中国の起源になっているのです。
それは夏・殷・周が本拠を置いた北中国が中国の起源になったことで、戎狄感とも言うべきものが夏・殷・周の歴史で限りなく控えめに語られたように。
戦国秦に戎狄の風俗があるといいながら、すっかり秦が中国王朝として扱われるように、
五胡は中国王朝として顕彰される機会を逸した不遇な民族といえましょう。

五胡と殷周の「民族」としての比較を行なってみることが、次の計画と課題
―五胡とは何か―
を克服する上で「五胡形成史論」になるものと思われます。

漢代および晋代に新来の民族で、漢人の奴隷として暮らしたことのある五胡は、
おそらく新来の民族を奴隷として扱う「中国」に怨嗟の念を抱いたことでしょう。
それが「中国の打倒」という決起に及び、自ら「中国」と化してしまうということで、「中国」という理念に挑戦したのです。

(殷王朝の使い走り的扱いだった周も、胡族に立場が似ている。)
(ヨーロッパで言う「キリスト教国」は、「中国」に近い発想をしている。ここら辺は『北の十字軍』(講談社選書メチエ)読んでないとピンと来ないかもしれないけど)
(あとは周と五胡の歩んだ歴史の差異とか、殷と周の関係と、匈奴と匈奴に支配されたほかの五胡との関係の相似とか。)
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Author:巫俊(ふしゅん)
研究対象:中国史(夏殷時代の地域史)
テーマ:神の王権の民族抗争とその生態

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