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巫氏春秋

アフロユーラシア史関係の雑記。 歴史と民族関係の書籍紹介。 井戸の中のカエル(巫俊の前世)の陳腐な日常の大冒険の言行録を一挙公開♪ 巫俊の総裁する雑篇「巫氏春秋」を照覧あれ。

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田横島と連綿と続く諸葛亮の大義(田横主義)

『隋書』地理志注によれば、東萊郡(唐の開皇五年より萊州に変わる)の即墨県に田横島があったと云う。
『史記』田儋(たん)列伝によると、漢楚の際に田横は徒属五百余人と海に入って島中に居たとある。
漢高祖は田横のもとに賢者が集い、斉の再興を計るようなことがあってはならじと、海中に使者を遣って田横を帰順させようとした。
最初は庶人になって島中を守りたいと返事した田横であるが、加えての帰順要請に従って島を出る。
しかし田横はかつて斉王として南面して自立していた我が漢天子の臣となるを大いなる恥とし、自刎して首だけを漢高祖に届けさせた。
漢高祖は王の礼をもって田横を、『後漢書』地理志注によれば河南尹(高祖の際はおそらく郡)匽師県に、葬送したという。(『史記正義』によれば西十五里の地点)
そして田横の従者二人、そして遅れて洛陽に招致された田横の徒属五百余人は田横の墳墓で集団自決する。

巫俊が思うところ、生ある機会を自ら損なって狂騒した末にこの最期というのは、滅びるべき遺習だと思っている。
しかし『三国志』やその注を見るに、程、諸葛亮の二人がともに、

程曰く「斉 一 壮 士 耳 , 猶 羞 為 高 祖 臣 .」
諸葛亮曰く「斉 之 壮 士 耳 , 猶 守 義 不 辱 ,」

と言っており、しかも程は田横でさえ羞恥心を知って自立したのだから曹操(呂布、張バクの乱時)も袁紹に屈服するなと言い、諸葛亮は赤壁の戦いを前にして孫権に田横でさえ羞恥心を知って自立したのだから劉備が屈するはずがないと言ったのである。
儒教的というか義侠的というか、どちらにせよこの生命に対して傲岸で死は名誉(恥)よりも軽くつまらないことだというこの観念、どうも思うに今日も廃れることなく連綿と続いているような気がする。

諸葛亮が日本人の受けがいい理由って、どうもこの一途で破滅的な理想実現の行動が共感されているかららしい。
だとすればそれは警戒するに値する。
小さな諸葛亮な分子が社会で成算の立たない理想を求めて騒ぐから、天下の争乱というものは終わらない。
諸葛亮の凄いところは、このかなり狂った理想と、実務的で理に適った外交や行政、戦略の能力が一人の身体の中に共存して宿っているという点にある。
どちらか一方があるだけの人は世に多いが、二つとも持っていてしかも機会を得て理想の実現へと舵取りをしたというのは驚嘆に値する。
ただし諸葛亮の理想というのは政策的な中身の無い漢室復興であり、理念的にはいかにも正道っぽく協賛者を得るのだが、亮の死後失速して挫折し、蜀政権を頽廃させていった原因は諸葛亮(と劉備)にある。

劉備が曹操に降らなかったことは相当に怪しんで良い。しかしその曹操も袁紹には降らなかった。
袁紹は駄目であるが曹操には降っていはずだ、と言っているのではない。
袁紹が興起したのはその家の名声に因る。名声はあれど政策は驕っていて公私を忘れるということについては、袁紹はその最たるものだ。
しかし、劉備にもその風はある。
名声と家の名(+実績、態度)を利用して許の皇室に取り入り天子の叔父を自称したのは劉備本人であり、曹操と相容れず反抗しては天子の政権を二分してしまおうとしたのも劉備である。
荊楚政権、あるいは蜀漢政権の樹立は全く私的な行動であるとは言えない。
しかしその背景には私的な立場を保持、強化することに専念して、いずれ天下の公をかっさらってしまおうと野心をたくましくしていたのは劉備であり、敗残の身で窮地にある劉備につけこんで軍師顔をするようになったのが諸葛亮そのひとである。

そして劉備は(劉備の病気が感染した関羽が)私的な驕った政策行動によって孫権との関係を悪化させ、荊州を失陥、そして夷陵の敗戦へと突き進む。
従って後釜にすわった諸葛亮は、いかに私心を隠して大義の為に政策行動をとるかということに病的なほど拘ったのである。(その大義に欠陥があるのだからただの延命処置の私心抑制であるが)
しかし私心とは隠していても出てしまうものである。馬謖の件であるとか、亮にかつてホウ統と並んで楚の良才であると推薦された廖立その人も言っている。
以下、廖立の言葉を引用しよう。

「先帝(劉備)は漢中を手に入れようとせず、呉と荊州南三郡を争ったすえ奪われ、漢中が曹操の手に落ちると夏侯淵・張郃らが攻めてきて益州も危ないところだった。ようやく漢中に入ったと思ったら関侯(関羽)は一兵卒も残さず滅ぼされ、上庸地方も失った。それは関侯が武力に頼って滅茶苦茶な行動をとったからだ。治中文恭の仕事はでたらめだし、長史向朗などはむかし馬良兄弟を聖人だと思い込んで尊敬さえしていた。郭攸之は人の後ろを付いて行くことしかできないのに侍中の大任に就いている。まさに今は末世なのだ。王連のような俗物が偉ぶってるから民衆は疲弊してこんな事態になったのだ」
(むじん書院、三国志人名事典「廖立」の項より引用)

まさに蜀の禍は諸葛亮の身に負っていて、そして亮を使嗾(しそう)したのは田横であり、『史記』で田横を絶賛した司馬遷にある。
ただ当時の趨勢を考えると、曹操が田横でさえと思って志を取り戻したように、その影響力は計り知れないし、又異なる価値観も天下の趨勢を占めるには力不足というか、発展途上であったと思う。
しかし21世紀の全球的な民主、市民、人道主義に依拠して生きる、社会を構成する、我々は、ときに『三国志』に学びつつもかつて英雄たちが試して転落した旧弊とは決別しないといけない。

ところでオバマ上院議員は大丈夫だろうか。彼が諸葛亮2号でないことを祈る。

なお、元魏、北斉の楊{小音}は高王(北斉の高氏)から逃れて「田横島」に移住し、そこで現地人に学問を教える先生をしていたらしい。(『北斉書』楊{小音}列伝)
田横の気風、未だ衰えずということらしい。
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Author:巫俊(ふしゅん)
研究対象:中国史(夏殷時代の地域史)
テーマ:神の王権の民族抗争とその生態

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