巫氏春秋

アフロユーラシア史関係の雑記。 歴史と民族関係の書籍紹介。 井戸の中のカエル(巫俊の前世)の陳腐な日常の大冒険の言行録を一挙公開♪ 巫俊の総裁する雑篇「巫氏春秋」を照覧あれ。

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『三国地誌』訳出wiki

http://www35.atwiki.jp/sangokuchishi/

更新再開予定。
やはり県外の人、史料に触れる機会のない人の為にupは必要と判断。

nagaichiさんへの返事にかえて「南中の交通路と諸葛亮の南征について」

・漢字が正しく表示されていないようでしたら、お手数ですが連絡してくださいm(___)m修正します。

・ここで地図を見れます。
http://www.sinomaps.com/non-cgi/usr/39/39_86_11.jpg
(『中国歴史地図集』三国蜀益州南部)
http://www.kzeng.info/node/21
(『中国歴史地図集』各時代の地図へのリンク集)

越スイ郡→キョウ都県(金沙江に沿わない。金沙江とは山々を挟んでずっと奥で水系も違う。ここで書く県、邑の中では一番重慶から離れている)

越スイ郡→卑水県(金沙江に沿わない。金沙江とは山々を挟んで西に行ったところ)

馬湖(卑水県とホク道県の中間にある邑。地図集の三国蜀益州南部地図では金沙江からわずかに距離を置いた場所とし越スイ郡とする。『華陽國志』に名前が出てくる。)

新道県(『三国志』李厳伝に「新道県」とある。同じく地図によれば馬湖とホク道県の中間にある県で、越スイ郡とする。金沙江沿い。)

ケン為郡→ホク道県(金沙江に沿う。こちらの方が重慶などに近い。金沙江は長江に合流する)


情報ありがとうございます。
地図集をつき合わせると、思亮州は後漢の卑水県の近くにあったようですね。
『後漢書』地理志の卑水県の項の注に引かれる『華陽国志』には、「 水 通 馬 湖 . 」とあります。
調べてみると、馬湖は同じくホク道県の項の引く『華陽国志』に、「 治 馬 湖 江 會 , 水 通 越 スイ . 舊 本 有 ホク 人 .・・・」とありました。

卑水県は越スイ郡治のキョウ都県の東北にあり、更に東北の馬湖に水路で通じています。馬湖江會(馬湖と江會?馬湖の金沙江に会するところ?)は更に東北のホウ道県が治めているとされ、越スイ郡と水路で通じています。

『三国志』李厳伝には、 「又 越 スイ 夷 率 高 定 遣 軍 圍 新 道 縣 , 厳 馳 往 赴 救 , 賊 皆 破 走 .」とあり、 ホク道県と馬湖のあいだにある金沙江沿いの新道縣まで、越スイ夷の高定が侵攻してきたとします。ケン為太守李厳はケン為郡から新道縣に救援したと思われます。

『三国志』李恢伝には、「丞 相 亮 南 征 , 先 由 越 スイ , 而 恢 案 道 向 建 寧 .」とあり、諸葛亮は南征して最初に越スイより進軍したとします。


以上に述べたことを突合せると、諸葛亮は新道と呼ばれた新しい(?)交通路を使ってケン為郡から越スイ郡に入ったと考えることができ、唐代の思亮州はそれを傍証する立場にあります。ほかに奇抜な越スイへの進入路が仮定できない限り、思亮州の位置はかなり有望な交通路と目されますね。



附言すると、地図を見ていて気付くのですが、唐代に至っても金沙江の本流沿いにはそれほど多くの州、郡、県が形成されていないようです。
ホク道県のあたりを南限としてそれ以北の金沙江沿いには都邑が目立つのですが。
なんかこう、きっと金沙江は大河過ぎて渓谷が深く、道もしばしば絶えたりして、漢代以前の先住民の国家形成なんかもホク道県より南の金沙江沿いの地域は避けて形成されていたのかもしれない、なんて思っていますが、どうでしょうか。

先住民勢力キョウの支配していた越スイと、先住民勢力ホク人の支配していたケン為がこの地域の二大勢力であり、それを結ぶ先住民の為の小人数向けの交通路があったのではないかと思います。
秦、漢人が入植、支配を及ぼすにつれて、道路を拡張したり水路を整備したんだろうと。それがどれくらい困難なことなのか分かりませんが、災害の起こる度に交通路が断絶し、そしてまた復旧したり新道がつくられたりと根気よく開発が続いたんだと思います。

蜀から越スイへ行く他のルートについてはまだ何も調べてないんですけどね。

田横島と連綿と続く諸葛亮の大義(田横主義)

『隋書』地理志注によれば、東萊郡(唐の開皇五年より萊州に変わる)の即墨県に田横島があったと云う。
『史記』田儋(たん)列伝によると、漢楚の際に田横は徒属五百余人と海に入って島中に居たとある。
漢高祖は田横のもとに賢者が集い、斉の再興を計るようなことがあってはならじと、海中に使者を遣って田横を帰順させようとした。
最初は庶人になって島中を守りたいと返事した田横であるが、加えての帰順要請に従って島を出る。
しかし田横はかつて斉王として南面して自立していた我が漢天子の臣となるを大いなる恥とし、自刎して首だけを漢高祖に届けさせた。
漢高祖は王の礼をもって田横を、『後漢書』地理志注によれば河南尹(高祖の際はおそらく郡)匽師県に、葬送したという。(『史記正義』によれば西十五里の地点)
そして田横の従者二人、そして遅れて洛陽に招致された田横の徒属五百余人は田横の墳墓で集団自決する。

巫俊が思うところ、生ある機会を自ら損なって狂騒した末にこの最期というのは、滅びるべき遺習だと思っている。
しかし『三国志』やその注を見るに、程、諸葛亮の二人がともに、

程曰く「斉 一 壮 士 耳 , 猶 羞 為 高 祖 臣 .」
諸葛亮曰く「斉 之 壮 士 耳 , 猶 守 義 不 辱 ,」

と言っており、しかも程は田横でさえ羞恥心を知って自立したのだから曹操(呂布、張バクの乱時)も袁紹に屈服するなと言い、諸葛亮は赤壁の戦いを前にして孫権に田横でさえ羞恥心を知って自立したのだから劉備が屈するはずがないと言ったのである。
儒教的というか義侠的というか、どちらにせよこの生命に対して傲岸で死は名誉(恥)よりも軽くつまらないことだというこの観念、どうも思うに今日も廃れることなく連綿と続いているような気がする。

諸葛亮が日本人の受けがいい理由って、どうもこの一途で破滅的な理想実現の行動が共感されているかららしい。
だとすればそれは警戒するに値する。
小さな諸葛亮な分子が社会で成算の立たない理想を求めて騒ぐから、天下の争乱というものは終わらない。
諸葛亮の凄いところは、このかなり狂った理想と、実務的で理に適った外交や行政、戦略の能力が一人の身体の中に共存して宿っているという点にある。
どちらか一方があるだけの人は世に多いが、二つとも持っていてしかも機会を得て理想の実現へと舵取りをしたというのは驚嘆に値する。
ただし諸葛亮の理想というのは政策的な中身の無い漢室復興であり、理念的にはいかにも正道っぽく協賛者を得るのだが、亮の死後失速して挫折し、蜀政権を頽廃させていった原因は諸葛亮(と劉備)にある。

劉備が曹操に降らなかったことは相当に怪しんで良い。しかしその曹操も袁紹には降らなかった。
袁紹は駄目であるが曹操には降っていはずだ、と言っているのではない。
袁紹が興起したのはその家の名声に因る。名声はあれど政策は驕っていて公私を忘れるということについては、袁紹はその最たるものだ。
しかし、劉備にもその風はある。
名声と家の名(+実績、態度)を利用して許の皇室に取り入り天子の叔父を自称したのは劉備本人であり、曹操と相容れず反抗しては天子の政権を二分してしまおうとしたのも劉備である。
荊楚政権、あるいは蜀漢政権の樹立は全く私的な行動であるとは言えない。
しかしその背景には私的な立場を保持、強化することに専念して、いずれ天下の公をかっさらってしまおうと野心をたくましくしていたのは劉備であり、敗残の身で窮地にある劉備につけこんで軍師顔をするようになったのが諸葛亮そのひとである。

そして劉備は(劉備の病気が感染した関羽が)私的な驕った政策行動によって孫権との関係を悪化させ、荊州を失陥、そして夷陵の敗戦へと突き進む。
従って後釜にすわった諸葛亮は、いかに私心を隠して大義の為に政策行動をとるかということに病的なほど拘ったのである。(その大義に欠陥があるのだからただの延命処置の私心抑制であるが)
しかし私心とは隠していても出てしまうものである。馬謖の件であるとか、亮にかつてホウ統と並んで楚の良才であると推薦された廖立その人も言っている。
以下、廖立の言葉を引用しよう。

「先帝(劉備)は漢中を手に入れようとせず、呉と荊州南三郡を争ったすえ奪われ、漢中が曹操の手に落ちると夏侯淵・張郃らが攻めてきて益州も危ないところだった。ようやく漢中に入ったと思ったら関侯(関羽)は一兵卒も残さず滅ぼされ、上庸地方も失った。それは関侯が武力に頼って滅茶苦茶な行動をとったからだ。治中文恭の仕事はでたらめだし、長史向朗などはむかし馬良兄弟を聖人だと思い込んで尊敬さえしていた。郭攸之は人の後ろを付いて行くことしかできないのに侍中の大任に就いている。まさに今は末世なのだ。王連のような俗物が偉ぶってるから民衆は疲弊してこんな事態になったのだ」
(むじん書院、三国志人名事典「廖立」の項より引用)

まさに蜀の禍は諸葛亮の身に負っていて、そして亮を使嗾(しそう)したのは田横であり、『史記』で田横を絶賛した司馬遷にある。
ただ当時の趨勢を考えると、曹操が田横でさえと思って志を取り戻したように、その影響力は計り知れないし、又異なる価値観も天下の趨勢を占めるには力不足というか、発展途上であったと思う。
しかし21世紀の全球的な民主、市民、人道主義に依拠して生きる、社会を構成する、我々は、ときに『三国志』に学びつつもかつて英雄たちが試して転落した旧弊とは決別しないといけない。

ところでオバマ上院議員は大丈夫だろうか。彼が諸葛亮2号でないことを祈る。

なお、元魏、北斉の楊{小音}は高王(北斉の高氏)から逃れて「田横島」に移住し、そこで現地人に学問を教える先生をしていたらしい。(『北斉書』楊{小音}列伝)
田横の気風、未だ衰えずということらしい。

思亮州

『新唐書』地理志によると、剣南道(三国でいう巴、蜀、南中)に思亮州という州があり、百六十八を数える諸羌の州のひとつであるという。
『中国歴史地図集』によれば、思亮州は今の昭覚というところ、四川省の南部、金沙江の西側にある。
金沙江の東側は雲南省であるから、どちらも三国時代には南中に入るところ。

http://www.sinomaps.com/non-cgi/usr/39/39_86_11.jpg (三国、益州南部地図)
http://www.sinomaps.com/non-cgi/usr/39/39_125_24.jpg(唐、剣南道南部)

見比べてみると色々面白いんじゃなかろうか。
思亮州というのは、諸葛亮を思う州であると思うのだが。


ところで『新唐書』陳子昂列伝に、吐蕃(トゥプト、のちのチベット)の四川進出を唐朝に対する脅威と感じて警鐘する進言が載っていた。
吐 蕃 愛 蜀 富 , 思 盜 之 矣 ,
などとあり、蜀の富は吐蕃を魅了してやまないらしい。

潼関之曹公故壘

新校本晉書/載記/卷一百三十 載記第三十/赫連勃勃

- 3209 -

赫 連 昌 攻 齡 石 及 龍 驤 将 軍 王 敬 于 潼 関 之 曹 公 故 壘 , 克 之 , 執 齡 石 及 敬 送 于 長 安 .

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巫俊(ふしゅん)

Author:巫俊(ふしゅん)
研究対象:中国史(夏殷時代の地域史)
テーマ:神の王権の民族抗争とその生態

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